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死ぬまで、私は探すのか。


南無阿弥陀佛

春陽。冬の掛け布団を仕舞って、合い掛け布団を出しました。

子供が一緒に寝て下さってますので、厚いお布団ではそろそろ暑くてやれません。 寝相の素晴らしい子供ですから、夜中に寝苦しくなると、布団そのものが無くなってしまうのです。 布団が無くては朝方に寒さで目が覚めてしまいますので、少し薄いお布団のお力をお借りするのです。

ちなみに私の寝相は、「死体のようだ」と言われます。

何故だか今日もまた、目が覚めて下さいました。


まもなく迎える昭和の日、恒例行事となりました「チャリティーバザー」が開かれます。

この度も多くのお方より御堂内に溢れるほどの物品をお寄せ頂き、また女人講(仏教婦人会)の皆さまのご尽力を賜り開催させて頂きます。

このバザーは、平成3年(1991年)に先代住職が当時の女人講の皆様と共に立ち上げて頂いたものです。

当初は雲仙普賢岳噴火の義捐金目的であり、その後は収益を災害義捐金の他、地域の福祉施設への物品寄贈等に活用させて頂いております。

こうして27年続けてこられましたのは、数え切れぬほどの御縁のおかげさまと頭が下がるばかりです。

さて。

「チャリティーバザー」は、いわゆる「善いことをしている」と言われます。

誰か彼かから、言ってもらえるのは有難い御事です。

誠にもったいないことです。

しかし、いつの間にか「私は善いことをしている」と思う瞬間が、確かにあるのです。

“恵まれない人”に“その人よりは恵まれている私”が“何かをほどこしてあげる”。

他人の為?いいえ、自身の欲を満たす為に、褒められやすい「慈善」を利用する。

嗚呼、これほど気持ちの良いことはありません。

しかしそんなものはただの勘違いです。

受けるも、与えるも、互いがなければ存在し得ないものであって、そこには上下も優劣もはじめからありません。諸々の御縁によって、与える側にも受ける側にもなるのが私であります。

また、御縁の妙によって偶々与える側になったとしても、一方的に与える事など決して無く、必ず何かを相手から授かっているのが私なのです。

毎日自慢のタネを探す私には、こんな当たり前の事すらわからない。

これが、誠に悲しい。

決して自分自身では気付き得ない、この悲しさが知らされなければ、私はむなしく過ぎるいのちで終わる事であったでしょう。

ここに如来の大慈悲が、叫びをもって我を呼びたまいます。

「病める者よ」と、慈悲の光で照らし出します。

この声が聞こえる所、私の悲しさと、真実に出遇えたよろこばしさがとろけあうのです。

「チャリティー」とは誰の為か。

その矢印の向きを眼を開けて見直すべし、28回目も、そのような声を聞くのです。

「親切心は自分で名告るものではなく、他人が感じるものだ。」

川瀬和敬 師

合掌

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