帰る場所と、帰りたい場所は違う。
- 立法寺
- 2018年5月4日
- 読了時間: 3分
南無阿弥陀佛
大風と共に、また寒さがぶり返して参りました。 先週、決心して合い掛け布団を出しましたのに、またしてもお布団にくるまって震える朝を迎える事となりました。
汗ばむ陽気となりますと、涼しさが恋しくなり、 冷たい風に震えると、日向の温もりが欲しくなる。
まるで私と他人との距離感のようですね。相変わらず勝手勝手な私であります。

2年ほど前から、月に一度、高田本山の晨朝(朝のおつとめ)御説教を仰せつかっています。
暑い日も寒い日も、おつとめは7時から。 毎月の稀有なる御縁を、緊張に震えつつ授かっております。
基本的に人見知りで、あがり症の私ですから、御説教の前の晩など、戦々恐々としておりますが、そんな中での楽しみは子供たちが坊守と共にこしらえてくれるおむすびです。
翌日早朝、車の中で頬張る為の大きなおむすびを2つ。 おむすびを包む食品用ラップに油性マジックで内緒のメッセージを添えて。 具材はその都度私のリクエストに応えてむすんでくれます。
翌朝、私はちょっと固くなったおむすびを頂きながら、
「とうちゃんがんばれ」と のたくった字を拝みつつ、御本山へ向かいます。
この緊張から私が解放されるのは、無事に家まで帰り着いた時、地元の香りをこの胸に吸い込んだ時となるのです。
あなたには、「帰る場所」がありますか?
そこはどうして、「帰る場所」なのでしょうか。
私の“帰りたい場所”は、この町、この寺、家族のもとです。
何故かというと、畢竟、それなりに好き勝手がまかり通るから、です。
だらしなくても、たよりなくても、ある程度なら誰かを傷つけても、許される。
私を取り巻く優しさに、胡坐をかいて蜜をすすっていられる。
それを私は心地良いとして固く握り締め、決して放したくないと思うのです。
しかし裏を返せば、それらが許されなくなった時、”帰りたい場所”とは思わなくなる。
ある時、いとも簡単に手放す事になるかもしれません。
このように私の願う“帰りたい場所”は、
ある瞬間には失われかねない、非常に虚ろな危ういものなのです。
もし今そこが、私の都合に適っていたなら、次に待つのは失う恐怖です。
私の都合に合わなくなれば、悪態をついて立ち去ることでしょう。
こんな場所に、本当の安らかさがあるはずがありません。
もしも、万が一にも私に本当の「帰る場所」があるならば、それは私が「願われている場所」なのです。
私が“帰りたい”と求めるところではなく、こんな私にも「帰っておいで」と与えて下さるところです。
私が「帰りたい」と思うのは、私に先んじて、あなたが願って下さるおかげさま。
「そんな場所なんて無いよ」と思うのは、無い物探しが得意な私の勝手。
なんのなんの、門扉は既に私の目の前に開かれています。
ですから、私は安堵して、今日も「帰りたい」と念ずるのです。
「どんな時でも、佛法への門が開かれていることを、平生という。」 川瀬和敬 師
合掌
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