私が居なくても、大丈夫だ。
南無阿弥陀佛
前回、坊守が素敵なお味わいを寄せて下れたので、「もう今週は書かなくても良いかな!」と一瞬ウキウキしていたのですが、「そもそもはじめから、別に書かなくても良いんやで」という有難い声が聞こえてきましたので、大きくうなづきつつ、今日もポチポチ、キーボードとにらめっこです。
私は仕事が遅いのです。
恐らくこの時点で、ものすごく頷かれている自信があるのですが、36年間この身とお付き合いさせて頂きまして、この原因の一つが「(私の思うレベルで)完璧な仕事をしたい願望」が極端に強いという所にあると思っています。
しかし「完璧なものを仕上げる」のは目的ではなく、ある事を受ける為の手段なんです。
では、いったい何が目的かと言うと、
「すごい事をして」相手をびっくりさせたい。
もっと言うと、ほめられたい。お礼を言われたい。
そうです、「ええかっこしぃ」なんですね。
そして、ほめられたらほめられたで、最後には“謙遜”で飾ります。
・・・救いようがないとは、正に私の為にある言葉でありました。
以前からこんな私ですので、当然仕事が溜まります。
そして「忙しい、忙しい」と毎日やっておるわけです。
高校時代も変わらず、部活に明け暮れ、アレコレ忙しくしておりました。
そんな中、ふとした折に体調を崩したのですが、それでも「僕が行かなきゃダメなんだ!」と登校しようとした際、
父がニコニコしながら、こう言ったのです。
「知道は、本当に欲張りだなぁ。」と。
「別に知道がいなくても、大丈夫だぞ。」と。
当時は、父の言葉の意味を考えようともせず、むしろ「励ましの言葉は無いのか」と腹を立てながら、結局そのまま家を飛び出したのでした。
しかし今にして味わえば「僕が行かなきゃダメなんだ」とは、
「僕が行かなきゃ(思い通りに出来ないから)ダメなんだ」や
「僕が行かなきゃ(ほめてもらえないから)ダメなんだ」とか
「僕が行かなきゃ(誰かに手柄を取られるから)ダメなんだ」という
気持ちが含まれているものなのですね。
大丈夫。
他人は、あなたは、私の人生の脇役じゃないんです。
私が居なくても大丈夫。
結果は、きっと私の思った通りにいかないでしょうが、でも大丈夫。
あれから20年を経て、そのような「声なき大音声」が聞こえてきます。
もちろん私が気付かなかっただけで、とうの昔から掛けて頂いていたのが申し訳ない限りです。
これまでも、これからも、もし私に賜る仕事があるならば、
それは御縁の妙に許され授かったもの。
私はその事に慚謝しつつ、もう少し「ええかっこしぃ」でいさせてもらいます。
私が居なくても大丈夫、大丈夫。
だからこそ、精一杯の日暮らしなのです。
合掌
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