迷っているのは誰か。
- 立法寺
- 2018年7月28日
- 読了時間: 3分
南無阿弥陀佛
暑さがゆるんで下さいました。
相変わらず気温は30℃を超えていますが、なんだか涼しい。
間も無くお盆もやって参りますから、このままいけば良いのにとの想いが、
心の内に湧くのです。
でももし、秋になってもこのままの気温だったら、私は何と言うのでしょう。

ただ今、文鳥(?)さんが、立法寺にいらっしゃいます。
遡る事2週間。
ある御家の御法事が、本堂にて勤まりました。
当日は大変に大変に暑いの中でありましたから、お参りが始まる前から戸を全て開け放っていたのです。
御給仕も調い、私は入堂させて頂いたのですが、何やら「ピッピッ」と可愛い声がします。
私は見回しましたが、堂内には沢山の御方がいらっしゃいましたから、それが何かは分からぬままでした。
そんな私が文鳥さんのお姿を発見しましたのは、おまいりが始まる直前。
御焼香をさせて頂き、振り返った瞬間です。
見れば、まなざし優しい御方の手の上で、文鳥らしき鳥が嬉しそうに鳴いているではありませんか。
想定外の状況に焦った私は、咄嗟に「お、お連れ様ですか?」と質問する始末でした。
その後は、とりあえず文鳥さんにはカゴにお入り頂いたり、迷い鳥をお知らせするポスターをご近所に貼らせて頂いたり、SNSで拡散して頂いたりと、多くの御方にご協力ご尽力頂きました。
皆様、その節は本当に有難うございました。
結局、飼い主はみつからぬまま、今日も文鳥さんは可憐に鳴いておられます。
とてもかわいらしく、雑穀を召し上がり、水を飲まれます。
だんだん馴れてきて下さり、昨日などは私の手の上でフンまでして頂きました(笑)
迷い鳥。
確かにこの状況は、
「文鳥が迷って、私の所に来た」です。
でも文鳥さんの可憐なお顔にみつめられると、
私の為に、ココに立ち寄って下さった気がするのです。
文鳥「迷ってる?誰が?」と。
佛教で「迷い」とは「無明(むみょう)」であると説かれます。
「無明」とは真っ暗で何もわからない、無知であるというよりは、
「自らをたよりとして、全てわかっているつもり」で生きる私の姿を指します。
この「私は間違っていない、認めてほしい」という想いが、今日も自らを縛り、あなたを傷付け続けているのですが、どこまでも「無自覚」でありますから、自身のちからでこの「迷い」に気付く事は、一生を尽くしてもありえません。
今回の御事は、「迷っていない私が、迷っている文鳥を助けた」
というワケではないのです。
迷う姿を私に見せ、あらわす為に、私の為にやってきたのでした。
「共に迷うものよ」との声が聞こえる所にこそ、あたたかな交わりがあるのです。
迷う者は、迷いたいから迷うのではない。
明るい者から見れば、迷うはずのない道に迷うのである。(川瀬和敬 師)
合掌
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