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求めて得たものなど、無い。


南無阿弥陀佛

来ました。

来てしまいました。

涼しいです。

いや、寒いです。

日中の暖かさから、夕刻~朝までの冷え込み。

嗚呼、いよいよ秋さんが来られ、冬さんも準備中です。

寒くなるとこの身は盛んに震えて、このいのちを温めます。

私は頼んだおぼえがないのですが、今日も震えて下さるのです。


春先、大変に多かった御葬儀の声も、お盆を挟んで随分静かであったのですが、9月に入ってからというもの御同行に、大切な友人の御親族にと、改めて無常を思い知らされる御縁を授かりました。

御棺を前に仰ぎ、御骨を眼前に致しますと、大いなるさみしさをこうむります。

「こんなものは要らない」と私は必死に背を向け逃げ出します。

しかし如来様は、逃げる私を追いかけつかまえ説法の場へと導き給うのです。

大切な御方の物言わぬ尊前は、求めずして授かった、大いなるかなしみの直説法。

御念佛の聞こえる風光は、私が嫌うかなしみも、恵まれたる宝と示されます。

私は、「(私自身が)求めて」そして「手に入れる」事を好みます。

アレが欲しいコレが欲しい。

あんな事イイナ、こんな事イイナ。

それらが、今日も叶い、明日も握っていられる事が喜びだと疑いません。

得たと思ったものが失われる事を恐れ、その瞬間が来ることを出来るだけ後回しにする事に注力し、時にはその事を忘れて、妄想の住人でいるのが他ならぬこの私。

そんな私を、如来様の御前に引きずり出すのが「求めずして与えられる」御事でした。

そうでした。

私が求めるものは、私の都合に合うものだけなのです。

そんなものは、それだけのものなのです。

そればかりか「求めて得た」など、私の驕りなのですね。

「求めて得た」と思ったものも、「求めずして授かった」ものの中。

実は、「求めずして授かった」ものばかりに支えられているのが、この私。

私がよろこぶ御縁も、かなしむ御縁も。

「私のもの」なんて、はじめから無かったのです。

全て全てがお授かり。

私を目覚ましめる為のおはからいでした。

求めずして与えられているから、念佛に遇うことが困難なのである。(川瀬和敬 師)

合掌

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