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死んだら終わり?終わらない?


南無阿弥陀佛

流感の季節が参ります。

インフルエンザの予防接種も始まっておりますので、

先日子供達と共に早速打って頂いたところです。

私は、これまでインフルエンザに罹った事はありません。

ただこれから罹らないとは限りません。

抵抗力をつける為の予防接種と言いますが、

私にとっては本当に罹った時に「やるだけの事はやったのよ?」と

自分を納得させる言い訳(予防線)にしている面も否めないのが、悲しい処です。


葬儀の御縁が続きます。

このような御縁を授かりますと、

「死んだらしまいか?」

と、しばしば問われます。

・・・いったい私は、どんな答えならば満足するのでしょうか。

大切な人との別れは辛く、痛ましいものです。

どうして死んでしまったのか、

まだまだ共に生きていたかったのに・・・。

このような想いですと、「死んだら終わり」では都合が悪いのです。

死後の世界を求め、時には死そのものを否定し、死者が生き返る事を願う心すら、少なからず起こってくるでしょう。

反対に、自分に仇を為す者が死にますと、今度は「死んだら終わり」でなければ困るのです。

やっと居なくなったのに、死んだらアッチでまた遭うかもしれない。

もし生き返ってきたら堪ったものじゃない・・・。

このように、仮に「死んだら終わり」でも、

「死んでも終わりじゃなかった」としても、

この私が本当に満たされる事はあり得ないのです。

「あるのか、ないのか」というモノの見方、価値観がある限り、一生私は苦しみ続ける事でしょう。

扨、御念佛の御教えでは「このいのち終わる時、如来様のおはたらきによって必ず御浄土へ往く」と聞きます。

すると私は、

「なるほど、死後は有るのだな」だとか

「浄土は本当にあるのだな」と、

反射的に頭で理解して、わかったつもりに安住しようとしますが、そんな浄土はただ都合の良い幻想に過ぎません。

われらが御開山 親鸞聖人は御浄土を「無量光明土(むりょうこうみょうど)」と讃えられました。

それは「有る・無い」に縛られ、苦しむ私を救う為、何ものにもさえぎられない、はかり知られない光を届ける如来様のおはたらきであるという味わいであり、ここに往くという事は、即ち諸々の佛となり、私にとって、私を照らし給うおはたらきに加わわられるという味わいとなるのです。

御浄土の佛さまはこの娑婆に還って、この私ただ一人の為に、御念仏を称えよと、御教えを聴けと、はたらかれます。

「死んだら終いか」など誰にも分かりません。分かる必要もありません。

この私に於いては、

「先に御浄土に御往生なされた諸佛のおかげさま」があって真実に出遇わしめられたと御念佛を賜り、

その御恩にお返しのしてみようもない事にうなだれつつ、うなづかされるばかりなのです。

合掌

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